ドルーロにゃん、政治経済を考える。

ドルーロにゃんが、イチから政経を学んで、ひとりで政策をやってみるブログ。

メーガン妃暴露問題。人種差別と王族の血統を同列に語っていいのか。

メーガン妃の暴露と、その批判や擁護が飛び交っています。「人種差別」という視点で議論されることの多いこの問題ですが、その視点になんとなく違和感がある人も少なくないのではないでしょうか。特に、「人種差別的」とされたイギリス王室を支持する声も根強いことが、この問題の複雑さを高めています。
人種差別という視点だけでは判断できない、「王家の継承」とは何なのか、今回もドルーロにゃんが考えます。

 

差別に厳しくなった世の中

文明の進歩とともに、差別に対して厳しい姿勢が取られるようになっています。人々の幸福を追及した結果ですが、一方で、人間が動物ゆえに持つ本来の習性とも言える行動を否定することは、なんらかの歪みを生じます。
アメリカでは、人種差別に対する抗議デモが暴動に発展しました。どんな正義があったとしても、他人に危害を加えることは非難されるべきであるのに、そう非難をする者は「人種差別主義者」として批判されてしまったのです。暴力を非難する、という意図は無視されたのです。
イギリスでも、メーガン妃を批判し、王室寄りの立場をとった番組司会者は非難を浴び、番組を降板する事態となっています。果たして報道の自由を持つ彼は、非難されるべきだったのでしょうか。

「傷ついた」と思えば、それは差別です。しかし、第三者が差別を論じるときは、被害側の感情のみを一方的に聞き入れるのではなく、加害側の意図を理解した上で判断しなければなりません。「差別」は個人間の揉め事ではなく、組織・地域・民族・人種の問題であり、その奥には社会的背景が存在しているのです。
では、イギリス王室の「差別」にある背景とは何でしょうか。

 

王族はもともと人種差別的

ところで、王族の地位が国民に認められる理由はなんでしょうか。
かつての専制主義のもとでは、絶対的な力で国民を支配することが、王である理由でした。しかし現代の世界中の王族は、そのほとんどが「象徴」的な存在であり、政治的な力を持ちません。
力を持たない王族が国民に認められる唯一の理由は、国家の「象徴」として、長年その血筋を守って君臨してきた、という事実だけです。
世界の歴史を見返すと、多くの王族は庶民とは結婚せず、貴族や他国の王族、もしくは近親者で結婚することもありました。
こうして歴史的には、いかなる王朝も、王族たる理由を守るべく、血筋を守ることに尽くしてきたのです。
一方現代では、世の中の風潮にならうようにして、王族も庶民と結婚することが増えています。しかし、血筋を守るという観点からは、そもそも庶民と結婚すること自体が問題なのです。

歴史・文化と、差別問題は相反する

庶民との結婚が、つい最近まで王族にとってのタブーであったのだから、違う国や人種の庶民と結婚するなどということは言語道断、という意見も多いのは必然です。メーガン妃の苦難は同情に値すべきものですが、イギリス王室の血統を守るという意味では、メーガン妃とその子供の人種を受け入れないということも、正当化されるものなのです。
日本人も、このイギリス保守派の考えに近い人が多いようです。日本は人種差別や男女平等の後進国であると揶揄されることもありますが、これも文化と歴史に裏打ちされた価値観に基づいています。
皇族の結婚相手に不祥事があったことで、その結婚に批判的な声が大きくなったことがありましたが、もしも皇太子が外国人と結婚するなどといったら、ほとんどの日本人が反対するでしょう。これは人種差別などではなく、皇族を皇族として認めるための、血統を守るべしという日本人の文化的選択なのです。